菅原伝授手習鑑

投稿日:2014年04月06日

菅原伝授手習鑑』 時代物

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主な登場人物

 

菅丞相(かんしょうじょう)   右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)

藤原(ふじわらの)時平(しへい)   左大臣で悪の張本人。

(まつ)(おう)(まる)    三つ子の一人で時平の舎人(とねり)

(うめ)(おう)(まる)    三つ子の一人で菅丞相の舎人。

(さくら)(まる)     三つ子の一人で(とき)()親王(しんのう)の舎人。

武部(たけべ)源蔵(げんぞう)   菅丞相の門弟で寺子屋の師匠。

 

あらすじ 初段~二段目

 

これは平安時代の菅原道真・大宰府左遷事件を下敷きにした作品。学者であり政治家でもあった菅丞相・菅原道真は、朝廷内で実力ナンバー2の右大臣。この時、ナンバー1の左大臣だったのが藤原時平。時平は帝の信任の厚い丞相を追い落とそうと、その機会を窺っていた。

京の都は加茂堤。菅丞相の養女・苅屋(かりや)(ひめ)と帝の弟・(とき)()親王(しんのう)が牛車の中で恋を語り合っていた。その仲立ちをしたのが斉世親王に仕える桜丸で、これは牛飼い舎人という今風に言えばお抱えのドライバーだった。ところがここへ時平の一味が現われ、桜丸が追い散らしている間に二人は牛車を抜け出し、そのまま駆け落ち、大騒動になってしまう。

丞相の館では弟子の武部(たけべ)源蔵(げんぞう)が書道の奥義「筆法(ひっぽう)」を伝授される。そして急に御所へ呼び出される丞相。何と丞相に謀反の罪を着せられ筑紫(つくしの)(くに)への流罪が決まったのだ。これは「苅屋姫と斉世親王を結婚させ、舅の丞相が朝廷を牛耳ろうとした」という嫌疑で、全くのでっち上げだった。

丞相は筑紫へ流される途中、河内国は土師ノ里(現・大阪府藤井寺市)にいる伯母の(かく)寿(じゅ)の元を訪れる。この覚寿は苅屋姫の実の母で、甥の菅丞相に苅屋姫を養女に出していた。土師ノ里の館には駆け落ちした苅屋姫もやって来る。苅屋姫は丞相へ迷惑を掛けた詫びと別れを告げたかったが覚寿は許さない。「おまえのせいで丞相は流罪になったのだ」と覚寿は憤る。

ここにはあと、苅屋姫の姉の立田前(たつたのまえ)や、その夫の宿祢(すくねの)太郎(たろう)に舅の土師(はじの)兵衛(ひょうえ)がいたが、太郎と兵衛は時平方に頼まれ丞相を暗殺しようとする悪い奴等。秘密を知った立田前を亡き者にする。丞相の命もこれまでかと思われたが、丞相が自ら彫った木像が身替りになる奇跡で暗殺は未遂に。悪人らも成敗される。そして丞相は覚寿や苅屋姫に見送られて土師ノ里を去り、これが丞相との永遠の別れになった。

 

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◎  ミステリアスな展開

 

この二段目はとても不思議なドラマ。悪人たちが丞相を偽迎えの輿に乗せ暗殺しようとしたところ、輿の中に丞相の姿はなく木像があった。確かにさっきは丞相が乗ったのに・・・。丞相が魂を込めて彫った木像が、丞相そのものの姿になったのだ。この木像にはモデルがある。道真の自作という「荒木の天神」で、現在も大阪府藤井寺市の道明寺天満宮に収まる。

また古代、菅原氏の祖先・野見宿禰は貴人が亡くなった際、奴婢などを殺し共に埋めた殉死の悪風を改め、代わりに焼き物の人形“埴輪”を埋めることを進言した。人形が身代わりとなって人の命を助けた・・・。こうした歴史も踏まえ、二段目土師ノ里の物語となった。

 

◎ 娘と別れたくない

 

この作品は「親子の別れ」が全体のテーマで、二段目では丞相と苅屋姫の別れが描かれる。娘との別れに際し丞相が名残に歌を詠む。「鳴けばこそ別れを急げ(とり)()の、聞こえぬ里の暁もがな」。一番鶏が鳴き、もう出発を急がなければならない。嗚呼、鶏など鳴かない里があれば良いのに・・・。ここは正に、丞相が血を吐く想いで語り感動的!

 

 

あらすじ 三段目

 

ここは河内国佐太村で元は菅丞相の領地、別荘に当たる所。そこの番人をするのが梅王丸・松王丸・桜丸という三つ子の父親。七十歳の誕生日を迎えて(しら)太夫(たゆう)というおめでたい名前になった。しかし、そのお祝いの当日に悲劇はおこる・・・。

桜丸が責任を取って切腹するというのだ。加茂堤で斉世親王と苅屋姫の恋の仲立ちをした桜丸。「このたびの騒動で丞相様は流罪となった。すべて私がいけなかったのだ・・・」。そう語る桜丸を、もう白太夫は止めることが出来なかった。桜丸は自ら若い命を散らした。

 

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◎ ドライバーが何故・・・

 

前に上げたとおり桜丸は斉世親王の“牛飼い舎人”で、これは主人のお抱えドライバーといったところ。宮仕えの者の中では一番下っ端。その桜丸が何故、責任を感じなければならないのだろう。桜丸はその訳として次のように語る。「下郎ながらも恥を知り、義の為に相果つる」。自分に目を掛けてくれた親王様へ、義を立てたということ。しかし理屈はそうでも、雲の上の争いに庶民が巻き込まれた感じで何とも哀れ。当時、江戸時代の観客も、丞相といった貴族の別れより、自分たちに近い白太夫親子の別れに、より共感を覚えたのではないだろうか。

 

あらすじ 四段目

 

初段で菅丞相から筆法の“伝授”を受けた丞相の書道の弟子・武部源蔵。源蔵は今、京の都の郊外で子供たちを集め“手習い”を教える寺子屋を開いている。作品のタイトル『菅原伝授手習鑑』、そのものの世界。

寺子屋には大ぜいの寺子の中、源蔵が預かっていた丞相の一子・菅秀才もいた。時平らは丞相ばかりでなく、その子の菅秀才の命も狙い、源蔵に対し「菅秀才を匿っていることは判っている。大人しくその首を渡せ」と命じていた。しかし源蔵にそのようなことは出来ない。「そうだ寺子の中から誰か身替りの子を立てよう・・・」。新入生の小太郎なら顔立ちも良く身替りに使える。そう考えたものの小太郎が不憫でならない。源蔵は思わずつぶやく「せまじきものは宮仕へ・・・」。宮仕えをする身では主人のため嫌なことでもしなくてはならない。そんな宮仕えなど、するべきものではないなあ・・・。

源蔵は新入生小太郎の首を刎ねた。その首を受け取る者たちがやって来る。三つ子の一人松王丸がいた。松王は菅丞相のご恩を感じていたが、今は悪人の時平に仕えている。首が本物かどうかを改める首実検が松王によって行われる。緊張の一瞬。松王は「若君菅秀才の首に間違いない」という。源蔵は身替りが成功して安堵の想い。

しかしドンデン返しが待っていた。首を討たれた小太郎は何と松王の子だったのだ。松王が菅秀才の身替りにしようと覚悟の上、我が子を寺子屋に送り込んでいた。今は悪人の時平に仕えていても、やはり丞相に恩義を感じていた松王で、我が子を犠牲にして丞相のご恩に報いた。

最後に小太郎の弔いが行なわれる。悲しい場面だが、同時にまた美しい場面。松王は丞相様のお役に立った喜びと、我が子を失った悲しみ。この二つの想いを抱きながら、この寺子屋から去る。

 

 

 

 

 

 

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◎ 名曲~いろは送り

 

最後、小太郎の亡骸を回向する場面を「いろは送り」と呼んでいる。いろは歌の「色は匂へど散りぬるを~」と続くところを巧みに書き換え、ここでは「いろは書く子はあへなくも、散りぬる命是非もなや~」としている。

ここは大変美しい曲に乗せ悲劇を語っている。悲劇だからと暗く沈んだ調子にはならない。ちょうど悲劇を歌い上げるオペラのアリアのようだ。

 

 

原作では寺子屋の前に「天拝山の段」という場面がある。筑紫国に流罪となった菅丞相が時平の悪巧みを知り、怒れる神“怨霊”と化す場面。太宰府近くににある小高い山が天拝山で、伝説では道真が遥か京の都へ向かい、日々祈りを捧げていた場所という。

この天拝山の段に用いられる菅丞相の人形は、初段や二段目で用いられる貴族風の拵えでなく、髪や髭も伸びた“流人風”の姿で、およそ天神~道真のイメージではない。

この段の菅丞相の人形は特別な扱いをされている。既に戦前の本に「古例として菅丞相人形祀る」とあり、現在でも天拝山の段が上演される際、菅丞相役の人形遣いの楽屋に丞相の人形が、お榊や水といったお供え物をして祀られている。

 

 

※写真は共に筆者が撮影したもの。

平14.5.26 国立劇場・玉男楽屋①

一枚は平成14年の東京・国立劇場、吉田玉男さんの楽屋。なつかしい玉男師の姿もあります。もう一枚は平成26年4月、大阪・国立文楽劇場の吉田玉女さんの楽屋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

玉女さんは平成27年、亡き師匠「吉田玉男」の名跡を二代目として襲名します。芸はもちろんのこと、こうした風習もシッカリ継承されることが文楽では大切なんですね。

 

2014.4.3 大阪・文楽劇場 「玉女楽屋」A

 

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