大塔宮曦鎧

投稿日:2013年12月02日

大塔宮曦鎧』(おおとうのみや・あさひのよろい)時代物

 

六波羅館の段・身替り音頭の段

 

「主な登場人物」

・斎藤太郎左衛門

鎌倉方の武将。官軍に味方した婿と娘は非業の最期。

・永井右馬頭

流刑となった後醍醐天皇の若宮を館に預かる。

・妻花園

右馬頭の妻。夫と共に若宮の身を守ろうと苦心する。

・三位の局

右馬頭の館に幽閉されている若宮の母。

・常盤駿河守

鎌倉方の武将。官軍の乱を平定し、都で権勢をふるう。

 

「あらすじ」

 

鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)等の活躍を描く長編の五段構成の内、ここは三段目。

幕府の横暴に堪えかね後醍醐天皇は討幕を目指すが、すぐさま鎌倉方に察知され天皇は隠岐へ流罪に。大塔宮護良親王も都から落ち延びる。

舞台は京の都。このたびの乱を平定した鎌倉方の武将・常盤駿河守範貞は、幽閉されている三位の局に想いを寄せ、恋の取りなしを斎藤太郎左衛門に頼むが一蹴される。太郎左衛門には早咲という娘と、その婿・土岐頼員がいたが、この度の乱で頼員は天皇側となり、夫婦は我が子の力若を残し非業の最期を遂げていた。太郎左衛門は娘夫婦を見殺しにしても鎌倉方に忠誠を尽くしていたのだ。忠義一途、無骨な彼にとって「恋のとりなしなど冗談ではない」というところ。

折から、若宮とその母・三位の局を預かる永井右馬頭の妻・花園がやって来る。常盤駿河守は我が想いが局に通じたかと喜ぶが、局の心はいまだ流罪となった天皇にあり駿河守は激怒する。そして腹いせのため「若君の首を切れ」と太郎左衛門に命じた。

ちょうど夏の頃で永井の屋敷では毎夜、盆踊りが行われていた。右馬頭と花園夫婦は、お預かりしている若君を救うため、我が子・鶴千代の首を差し出そうと考えた。そして首を打つ役の太郎左衛門がやって来ると、たちまち身替りの計略を見抜いてしまう。もはやこれまで・・・。永井夫婦は太郎左衛門に「せめて宮様が機嫌よく盆踊りをしている最中に討って欲しい」と願う。

盆踊りが始まる。「これやこの七月の十六日は仏の慈悲・・・。父恋し母恋し、恋し恋しとなくは冥途の鳥かえ・・・」。太郎左衛門の刀が一閃。踊りの輪の中から幼子の首が落ちる。これは若君でも鶴千代のものでもなかった。これまで太郎左衛門が密かに養育していた亡き早咲と頼員の一子・力若であった。

自分の心はあくまでも鎌倉方にある。しかし、天皇のお味方をして非業の最期を遂げた婿があまりに不憫なので、その志を叶えてやりたいと思った。そこで太郎左衛門にとっては孫に当たる力若を身替りに立て、天皇家の血筋を守ろうとしたのだった。

 

「ここを観て・・・聴いて・・・」

 

この作品は享保8年(1723)竹本座で初演され、作者は竹田出雲と松田和吉(『阿古屋』の作者、文耕堂のこと)。竹田出雲と言えば名作『菅原伝授手習鑑』の作者でもあり、そこでは有名な『寺子屋の段』で「身替り」の手法が取られていた。『菅原』の初演が延享3年(1746)なので、それより二十年以上も前のこの作品で、既に「身替り劇」が作られていたことになる。

『寺子屋』では松王丸が我が子の小太郎を身替りに。この作品では斎藤太郎左衛門が力若という“孫”を身替りにしていた。『寺子屋』では「いろは送り」の曲が印象的であるが、ここでも「身替り音頭」が胸を打つ大切な部分。

 

 

重要な復活公演

 

平成25年12月の国立劇場公演で、この作品が上演される。これが何と明治25年(1892)以来、121年ぶりとのこと。長く埋もれていた作品が再び陽の目を見ることは文楽ファンにとっても嬉しい限り。しかし、これまで上演が絶えていたのには理由があるハズ。その多くは「つまらないから絶えていた」というのがほとんど。

この作品は「孫を身替りにする」という設定に、「身替り音頭」の演出も大したもの。充分に見ごたえのある作品なのだから、あとは演者の熱演を期待したい。この作品を是非、文楽の大切なレパートリーとして育てて欲しい。

 

( 了 )

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